1981年 | 東京都練馬区立北町西小学校 卒業 |
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1984年 | 東京都練馬区立練馬東中学校 卒業 |
1987年 | 國學院大學久我山高等学校 卒業 |
1991年 | 慶應義塾大学経済学部 卒業 慶應義塾大学体育会卓球部主将 全日本学生選手権、インカレ出場 |
1991年 | 東京電力株式会社 入社/東京西支店 板橋支社に赴任 |
1996年 | 東京電力 東京東支店へ異動 |
1997年 | 東京電力 本店へ異動 |
1998年 | 慶應義塾大学 体育会 卓球部(男子)監督 |
2000年 | 東京電力労働組合 本店総支部 執行委員 |
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2001年 | 東京電力労働組合 本店総支部 書記長 |
2003年 | 東京電力労働組合 中央特別執行委員 全国電力総連 社会産業政策局 部長 |
2005年 | 外務省へ出向 在タイ日本国大使館 一等書記官 |
2008年 | 連合本部/生活福祉局次長・国際局長・ 経済政策局長を歴任 |
2015年 | 関東電力総連 事務局長 東京電力労働組合 副書記長 |
2016年 | 東京電力労働組合 中央書記長 |
2017年 | オール東電 卓球部部長 |
2019年 | 東京電力労働組合 中央執行委員長 関東電力総連 会長 全国電力総連 副会長 |
2022年 | 国民民主党参議院比例区第2総支部長 |
2022年7月10日 第26回参議院議員通常選挙・比例代表初当選 (党内第一位) |
群馬県出身の父と、山形県出身の母、2歳年上の兄の4人家族。里帰り出産のため、母の地元・山形県東村山郡山辺町で生まれる。小さな頃は体が弱かったので、何度か手術をしたこともあった。母にはとても心配をかけたと思う。
母は、東京のアパレルメーカーで試作品や見本品を作る仕事をしており、業務用のミシンを自宅に置き、黙々と作業をしていた。幼い頃の記憶だが、子育てをしながら、仕事をこなしていた母を尊敬している。
父はお菓子問屋に勤めており、メーカーからお菓子を仕入れ、コンビニやスーパーに卸す仕事をしていた。仕事一筋で真面目だった父。従業員が40人ほどの小さな中小企業で、家族を支えてくれたことには頭が上がらない。その後、介護施設でボランティアを10年ほど続けていたが、定年でリタイア。今は、母と一緒に群馬県に移住し、ゆっくりと暮らしている。
やんちゃでお調子者だった幼少期。幼稚園に入園する直前、一家で引っ越しをすることになり、兄が通っていた幼稚園に行けなくなってしまう。それでも兄と同じ幼稚園に通いたかった私は、公共の路線バスを使って20分かけて通い、3年間無欠席で精勤賞をもらった。
幼稚園から小学校に上がると、ますます「やんちゃ」に。サザエさんの家族に例えるなら、「カツオ」のような少年だったと思う。特に、小学校では友人と喋りすぎてしまい、先生から怒られ、よく廊下に立たされていた。
小学校6年生のとき、兄が卓球で活躍しているのに感化され、私も卓球を始めた。スタートは遅かったが、兄に追いつきたい一心で夢中で練習に励んだ。
東京都練馬区立練馬東中学校に進学した後も、卓球部に入り、夢中で卓球台に向かった。家と練習場を往復する毎日だったが、次第にもっと強くなりたいという気持ちに。そんな想いから、入学を志ざしたのが東京都杉並区にある國學院大學久我山高等学校だった。
私は國學院大學久我山高等学校へ入学するために、より一層卓球の練習に励んだ。満を辞して、父に進学の相談をしたのだが、「入学は難しい、そんなお金はない」と言われてしまった。國學院大學久我山高等学校は私立高校。私の家庭は経済的に決して裕福な方ではなかった。父の言葉を聞いて、「入れないのかぁ」と呆然としてしまったのを覚えている。
意気消沈していたところ、中学校の担任が「勉強を頑張れば、学年に最大5人は特待生制度を受けることができる。授業料も免除されるから、目指してみないか?」と声をかけてくれた。私はラケットを鉛筆に持ち替えて勉学に打ち込んだ。結果、学年1位の成績を残すことができ、特待生枠で入学できることに。「また卓球に打ち込める!」と歓喜した。
大学では体育会卓球部主将として、全日本学生選手権への出場とインカレへの出場を果たすことができた。当時を振り返っても、本当に充実した学生時代だったと思う。一方の学業では教員を志し、大学在学中に中学校・高等学校の社会科教職課程を修了した。
意気揚々と向かった母校での教育実習。気が付いたことは「自分はいい教員になることができない」ということだった。私は懸命に教えているのに、生徒には全く伝わらない。「なぜわかってくれないのだろう」と、生徒のことを理解していないと思った「自分」を客観視したときに、「あぁ、自分は教育者になるべきではない」と思い、教職の道を泣く泣く諦めることにした。
しかし、本気で教員を目指していたため、就職活動なんてしていなかった。卓球部のOBである先輩に相談したところ「慶応体育会からの推薦があれば、うちの会社へ就職できるかもしれない」と教えてくれた。その先輩が勤めていた会社が「東京電力」だったのだ。これまで打ち込んできた卓球のおかげで、唯一の内定をもらうことができた。
東京電力への入社が決まったあと、半月板を痛めてしまう。手術をすると、青春時代の多くの時間を捧げてきた卓球がもうできないかもしれない。私は悩んだ結果、人事の方に連絡した。「卓球でお役に立てないかもしれません。それでもいいのでしょうか?」と正直に相談をしたところ、「それでも構わない」といってくれた。私は意を決して手術を受け、内定式に向かった。
内示を受けたのは「板橋支社」だった。そこで出会った支社長は、なんと全東電卓球部の部長。嫌な予感がした。(全東電とは、東京電力の社員が参加する公式文化会のようなもので、卓球意外にもサッカーやテニスなど各種目で営業所対抗戦が実施されていた)
支社長は「慶応義塾大学の卓球部主将が来ると聞き、板橋支社に欲しいと掛け合った。板橋支社を東京電力で1番強い営業所にしたい!」と私に話した。嫌な予感は的中したが、支社長の熱量の根負けし、リハビリに取り組む決意をする。はじめはガクガクだった膝もどんどん回復していった。そして3年後、板橋支社は東京電力で1番の営業所に。支社長の夢が叶った瞬間だった。
入社して5年間は現場に配属され、私は料金課と営業課の仕事を経験した。料金課では、自動計算で算出できないイレギュラーな電気料金の計算や、請求書の送付など事務作業も行う。営業課は、主に業務用のビルや建物から承った電気のお申し込みを審査し、契約をまとめるというものだった。
私が東京電力に入社して感じたことは、「電気を送ること」に対して真面目な集団だということだ。電気のお申し込みをいただいたら、トラブルなく電気を早くお届けする。停電を起こさないように安定した設備を準備する。台風などの自然災害で停電が起きた時には、すぐに駆けつけて復旧し、いち早く電気をお届けする。とにかく真面目なのだ。
業務内容や役割が違っていても、社員全員が「電気を送る」という共通のミッションを持っており、それぞれにアイデンティティがあり、責任感のある素晴らしい集団だと感じた。その想いを持つひとりだからこそ、東京電力での仕事を続けることができたのだと思う。
本社異動後、企画部・調査課で需要想定と電力の自由化への対応を行った。需要想定とは、1年後や2年後、長期的には10年後や20年後、電力がどういった使われ方をしていくのかを想定し、設備投資計画を立てる仕事だ。需要想定は、東京電力という会社のすべての始まりだと思う。
直近の想定は、気温や湿度などの外的要因と使用電力量がデータとして蓄積されているため概ね算出できるが、10年後や20年後の想定は難しい。家庭用電力に限らず、産業界で起こる事態も想定しなければならず、プレッシャーは凄まじいものだった。実際に起きるかどうかもわからないシナリオをチームで描く。そのシナリオが100億、200億という会社の収支を左右する。だからこそ、やりがいのある仕事でもあった。
その後、電力の自由化が始まり、今後東京電力はいかなる経営を行うべきか、自由化はどういうシステムであるべきか、政策を取りまとめる担当になることに。さらに、自由化を視野に入れた需要想定も任されることになり、過去の先輩方も経験したことのない、とんでもない仕事に挑戦することになった。
電力の自由化と、自由化を前提とした需要想定。そもそも、これまで東京電力が行なっていた営業は「電気のお申し込みを受けること」、いわば「待ち」の営業だ。でも、これからは違う。お客さまはどこから電気を買うかを自由に選ぶことができる。これから参入してくる企業は「攻め」の営業に徹するに決まっている。どちらが勝つか、勝負は明確だった。
ずっと待っているだけでは、取り残されてしまう。東京電力が自由化の波に乗るためには、「買ってください」という本当の意味での営業にシフトしなければならない。会社はもちろんのこと、従業員のマインドが変わらなければ大変なことになる。
需要想定をする中で、会社の将来について危機感を感じていた時、上司から声が掛かった。「今、会社に何が起きようとしているのか。どんな課題があって、どんな議論をしているのか。勉強になるからこれを機会に労働組合にいってきなさい」と打診されたのだ。これを機に、東京電力労働組合(以下、東電労組)の執行委員に就任した。
東電労組の本店総支部で執行委員に就任。普段は通常業務に取り組むが、組合の会議がある際には執行委員として出席する。電力の自由化という変革期が迫ってきており、会社だけでなく従業員も変わらなければならないのに、旧態依然の会議を続けていることに愕然とした。
このままでは会社が駄目になってしまう。会議の度に手を挙げ、東京電力にこれから起きることについて発言をした。「変えなければ」という一心だったが、組合員の反応は鈍い。そんな中、「面白くて、活きがいい奴がいる」と目を留めてくれた人がいた。本店総支部のOBで副委員長経験がある方だった。
「組合の中から発信してはどうか。会社の課題や、今すべきことを自らやってきたらどうだ?まずは2年間暴れてこい」と誘われる。組合に行けば、もっと色々な情報発信ができる。従業員の考えをより詳しく知ることができれば、マインドを変えることができる。そう考えた私は、執行委員に就任した翌年から現在に至るまで、専従役員として約20年間の活動に取り組むことになった。
当時、中央委員会という定時大会に次ぐ大きな会があった。会の冒頭に委員長が大所高所から見た挨拶をするのが常で、「東京電力は自由化の競争に負けない。むしろこれから勢いをつけていく」というような内容をよく耳にした。挨拶が終わると、直近で何が起きたか経過報告をしたのち、議長が質疑を求めるという流れだ。
私は、委員長の挨拶に「質問があります」と何度も手を挙げた。委員長の見通しが読み間違えていると感じたのだ。「東京電力がずっとナンバーワンでいられると信じてしまうと、間違ってしまうのではないか。むしろ私たちは食べられる方だ」と主張した。私の主張を聞いた当時の委員長が、毎回丁寧に答えてくれたことも覚えている。
時代錯誤なパワープレイにも物申した。ただ「集まれ」と言われても、組合員の気持ちは離れてしまう。なぜそうするのかをきちんと説明をした上で、行動を求めるべきだと訴えた。「有効な会議にしたい。忌憚のない意見を」と言われるので、忌憚のない意見を述べていたが、議論が激情型になることもしばしばだった。
電力の自由化が本格的に始動する。自由化についての審議が繰り広げられていた電気事業審議会(※)、のちの電気事業分科会には、労働者の代表も参加することができた。私が東京電力の本社に配属されていた時代から、電力の自由化について対応実績があったことが契機となり、審議会に関与しないかと誘いがあった。
これはぜひ受けるべきだと強く感じた。事業者の立場ももちろんだが、それ以上に「労働者の立場」から議論することが重要だと考えていたからだ。急激な自由化によって、労働条件を切り下げることにつながるかもしれない。だからこそ、労働者の立場で自由化のあるべき姿を探ることは大事な論点だった。
そして、全国電力総連の社会産業政策局へ派遣されることになった。これまで担っていた労働組合の仕事とは異なり、政策中心の取り組みに従事した。
※通商産業大臣(現・経済産業大臣)の諮問に応じて、電気事業に関する重要事項を調査・審議して、意見を申し述べることを主たる役割として設置されていた諮問機関のこと。
社会産業政策局で電力の自由化に関する政策を取りまとめる補佐をしていたとき、転機が訪れた。「外務省へ出向し、大使館員として勤務してみないか?」という誘いがあったのだ。海外に行って大使館で仕事をするなんて聞いたことがなかったため、「面白い!ぜひお受けしたい」とすぐに回答をした。
候補地の指示を待っていると、当時日本と燃料の売買が盛んだったカタールが候補としてあがってくる。妻に相談をすると「行かない」と言われてしまった。それもそのはず、当時子どもは3歳と1歳。厳しい育児環境であることは明確だった。家族会議を重ねながら、候補地の進展を待つことにした。
紆余曲折あり、最終的に言い渡されたのが在タイ日本国大使館だった。タイなら家族と一緒に行くことができる。正直なところ、父親としてほっとしたのを覚えている。当時は36歳。決定を受けたとき、全く知らない土地で全く違う仕事をすることに、もう一度新入社員になったような感情が湧いていた。
大使館員としてタイに向かった。初めて現地に行ったときの光景が今でも目に焼き付いている。2004年12月26日、現地時間午前7時58分。スマトラ島北西沖のインド洋を震源とするM9.0の巨大地震が発生。その2時間後、タイ・プーケット島周辺に津波が到達した。
当時はクリスマス休暇の真っ只中で、現地は多くの外国人観光客でにぎわっていた。また、タイ南部にはミャンマーからの出稼ぎ労働者が多く、その多くが不法入国だ。ゴム農園での作業、沖での漁業や獲った魚の処理など、多くの労働者が午前中に仕事をしていた。2005年4月。被災地復興のために向かった現地は、4ヶ月経っても身元不明の遺体で溢れていた。とにかく復興させなければ――その一心で、やるべき仕事に邁進した。
政府開発援助(ODA)の一環として、日本がタイで実施している草の根レベルで住民に密着した細やかな支援「草の根・人間の安全保障無償資金協力」の担当として、タイ南部の水道敷設支援や、学校校舎や寮の建設を実施。震災による心的ストレスで従来の仕事ができなくなった方への職業訓練も行った。
2008年からは連合本部に派遣され、7年4ヶ月をかけて、生活福祉局次長・国際局長・経済政策局長を歴任した。生活福祉局では、年金や医療、介護、子育てといった社会保障に関わる政策を連合として取りまとめ、厚生労働省や財務省に訴えていくのが主な仕事だった。
国際局では、各国にある連合機関を束ねる国際労働組合総連合(International Trade Union Confederation)が開催する執行委員会へ随行し、各国で開催される大会への出席や、人物交流を行った。経済政策局はエネルギーや金融など産業発展に伴う政策や、税全般における経済政策を取りまとめ、生活福祉局同様、各省庁へ働きかけていく仕事だ。
全国電力総連、外務省への出向、在タイ日本国大使館。これまでずっと外回りで、たくさんの方々との出会いがあり、さまざまな知識と経験を積み重ねてきた今、他の人とは違う側面で役に立てるかもしれない。そんな想いを胸に、12年の歳月を経て、再び東京電力へ回帰することになった。
2021年1月、参議院議員を3期務める小林正夫議員の後任を推薦するよう、電力総連から関東電力総連に要請がなされた。
関東電力総連と東電労組で、後任についての議論が始まった。私は関東電力総連の会長として、「これはとても難しい決断だから、私に一任してほしい」と提案した。すると、副会長が手を挙げ「会長の今の提案を否決します」という。他の委員も次々に否決していく。最後には、「私たちに一任してほしい。ここからは竹詰さんに席を外していただきたい」というのだ。否決されたのも、退席を促されたのも私の人生で初めてだった。
関東電力総連には39の組合が加盟している。東電労組を除く38の組合から「竹詰ひとしを推薦します」という旨の決議書を渡され、東電労組の各地域の委員長全員からも同様の決議書が届く。そして電力総連、各構成総連からも全会一致で推薦決定がなされ、私は、小林議員のバトンを引き継ぐ決意を表明した。
2021年3月に電力総連の組織内候補予定者として擁立されて以降、およそ1年4カ月にわたって全国の電力関連産業を中心に働く仲間の職場を回らせていただいた。
全国を回って様々なことを教えてもらい、たくさんのことが頭の中にも体の中にも入っていった。教えてもらったことを、今度はしっかりお返ししなければならないと思うことの連続で、行くところ行くところで「職場、現場の声」をもらい、吸収させてもらった。
コロナ禍における政治、選挙活動はこれまでに経験のない難しい状況下での活動だったが、多くの皆さまからたくさんのご支援やご協力をいただき、2022年7月10日、第26回参議院議員通常選挙において比例代表で党内トップ当選、238,956票という大変多くの方に「竹詰ひとし」と投票していただいた。
ご支援いただいた多くの皆さまの期待に応えられるよう「頼れる政治。職場の声が原点!」をモットーに、議員活動に邁進していく強い決意で新たに活動を始めた。