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タイで経験した第三者の必要性について

タイで経験した第三者の必要性について

外務省と民間の人事交流の一環として、労働組合の役員が在外公館に派遣される通称「連合アタッシェ」という協定を結んでいます。任期は3年間です。

私が電力総連で働いているときに、連合から電力総連へ連合アタッシェの話があり、そんなことを経験できる機会がもらえるのかと驚くとともに、是非やってみたいと思い、引き受けさせて頂きました。

当時は、どの国に赴任するのかは個々人の希望ではなく、連合と外務省が調整するのですが、紆余曲折あり、私はタイに赴任すること、そしてODA(政府開発援助)を担当することが決まりました。

また、赴任する前に7カ月ほど、外務省職員として働くための知識や英語の能力を高めるための研修などを受講することもできました。

まさにその研修中だったタイへの赴任の4ヶ月前、2004年12月26日にスマトラ島沖地震が発生しました。マグニチュード9.1というこの地震では大きな津波も発生し、インドネシアの隣にあるタイも大きな被害を受けました。

 

プーケット島では現地の方だけではなくクリスマス休暇を過ごす海外からの観光客の方々が大勢亡くなり、日本人も被害に遭われました。

被害に遭われた日本人の中には大使館員の方もお子様と一緒に亡くなられ、私が赴任したときにも大使館の机には花が置かれていました。

当時私は日本でテレビを通じて映像で見ていたのですが、その被害の甚大さに驚くとともに、これから赴任するタイではODAを担当する者として、この地の復興にも携わるのだろうとぼんやりと想像していました。

そして、4ヶ月後、在タイ日本国大使館へ着任し、最初の出張でプーケット島やパンガー県を訪れました。

スマトラ島沖地震4か月後のプーケット島

そこは、震災発生4ヶ月経ってもほとんど手つかずの状態で、身元不明の遺体が冷蔵コンテナにたくさん安置されていました。

そして、右の海から左の海まで全てが見通せるぐらい建物が根こそぎ持って行かれた状態でした。現地に着いた瞬間、経験したことのない強烈な匂いで我慢できずに吐いてしまったことを覚えています。こんなことが起こって良いのかと本当に衝撃を受けました。

私は担当しませんでしたが、外交官の方は身元を確認するために、遺体が納められている袋を開けて遺品の確認や歯形を取るなど、とても大変な仕事にも従事されていました。

私の担当はODAでしたので、日本国民の皆さまからの税金を使って、被災地や被災者の支援に関するプロジェクトにお金を拠出することが仕事でした。

流されてしまった学校や図書館の再建や、津波がトラウマとなって漁業に従事できなくなった漁師の方々に、漁業に変わる職業を訓練するプロジェクトなどに携わりました。

機織りの職業訓練

その他にも、タイの隣にはミャンマーがあり、現在軍事クーデターが起こって大変混乱していますが、当時も軍事クーデター後の軍事政権で、ミャンマーからタイへ逃れてきた難民が14万人くらいおり、私は難民キャンプに何度も足を運び、教育や医療の支援をしていました。

難民キャンプでの教育支援

その当時の光景は忘れられませんし、世界の中には自分の力ではどうにもならない困った境地に追いやられてしまう人たちが多くいることをまざまざと見せつけられました。

一方でそうした境地に追いやられた人たちだけの力では、その困難な状況を克服することはなかなかできないことも現場で思い知らされました。

つまり、困難な状況に陥った人たちの現状を実際に目にし、話を聞いて、常に支援の手を差し伸べる第三者の存在こそが必要であり、そうした役割を担うことの重要性を強く認識したのです。

タイでの3年間の任期満了後、こうした経験を基に日本に戻ってからは連合本部に籍を移し、現場での声をしっかりと聴き、公的年金制度や各国の労使関係調査、経済政策に係る意見、提案をとりまとめ政府に対して提言してきました。

私は日本国内だけではなく、世界における日本の果たすべき役割などもしっかりと発信し、実現していきたいと考えています。

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